台湾で働きたい人へ:長い目で見れば、自分が本気で望む方向へキャリアは変えられる。台湾好き・非エリート・ダメリーマンの告白

キャリア

台湾で働きたいという方から連絡を頂くことがあります。私が唯一言えるアドバイスは「長い目で見れば、自分が本気で望む方向へキャリアは変えられる」ということです。ここでは「台湾好き・非エリート・ダメリーマン」だった私の経験を参考までに書いてみたいと思います。

非エリート・ダメリーマン「横紙破り」を決心

大学時代に北京に行き中国語を勉強し、日本に戻ってから台湾人の友達ができ、自然に中国語圏で、特に台湾で仕事をしたいと思うようになりました。大学卒業後、日本の某大企業に行きましたが、台湾とは縁の遠い国内部門に配属されました。

さらに社内では非主流・非エリート扱いであることにすぐに気づきました。普通に会社にいても自分の望むキャリアは得られません。実現のためにはある程度「横紙破り」な方法を採るしかありません。

どう足掻いても国内部門からいきなり台湾は無理なので、まずは最初のステップとして国内部門から国際部門への異動を画策しました。最初は国内部門の人事チームに色々言っていたものの、しょせん国内部門内の組織、同部門内の異動ならまだしも、別部門への異動は調整が困難で、消極的なことはその内分かりました。

ダメリーマン、牙を研ぐ

そこでまず3年後を目指して自己研鑽に励むことにしました。まず会計・法律・技術・経営・技術など様々な専門書や解説書を読みました。毎月数万円は本の購入に充てていましたし、昼休みも近くの本屋さんで本を探すのが楽しみになっていました。仕事へも活かせる部分があり、実践と学習が結びつく楽しさもありました。

次に英語、TOEICの点数を挙げることに取り組みました。当時の会社では中国語力は評価されず、TOEICの点数が全社を挙げて新人に求められたからです。しかし会社から与えられた教材は貧弱でしたので、自費でTOEIC専門の語学学校に通いました。TOEICの点数は大幅に向上し、その語学学校から頼まれて、優秀な生徒として習い事・資格スクールの情報誌に取材・掲載もされました。

一方で中国語も忘れないように学校に通い続けました。日本では留学経験者などを対象にした上級クラスを開講している学校は非常に少なく、開講している数少ない学校を探して通いました。

あれこれやっていると支払がかさみ、やむえず借金もしました。でも3年目までの我慢だと自分に言い聞かせ、時間もお金も無理をして自己研鑽に励んだのです。

ダメリーマン、生意気にも大企業に牙をむく

3年の期限付きで自己研鑽に励んだのは、まず3年未満での転職はやはりマイナス評価につながる可能性を考え、しっかり自己研鑽に励み、職場での経験と組み合わせて、少しでも中国語が使える職場に転職しようとしていたのです。

また3年目の終わりごろ、国内部門ではなく、本社の人事部門が主催した集合研修があり、研修の最後に今後のキャリアに関する人事面談が予定されていました。本社の人事部門であれば部門間の異動に関しても調整してくれる可能性がありました。

もちろん、その可能性は非常に低いものでした。本社の人事部門であっても人事異動の調整は面倒なはずで、それを私ごときのために進んでやってくれる奇特な人がいるとも思えなかったのです。しかし辞める覚悟をもって臨めば、真剣に向き合ってくれる人がいると期待したのです。

もちろん本社の人事部門との面談で辞める覚悟を見せることで、「どうぞ辞めてください」と言われる可能性も大いにありました。社会人3年目の私は会社に失望しつつも、かすかな望みに期待するという非常に矛盾した気持でした。

奇跡的に国際部門に行く

私にとっては大きな賭けは見事に奏功し、例外的に国際部門に異動することができました。当時の国際部門は色々な問題があり、他部門との人材入れ替えの機会が若干あったこと、また自己研鑽や仕事を頑張ったことも後押ししたかもしれません。

しかし一番大きいのは「若手にチャンスをやろう」という誰かの良心がつながった結果だと思います。そう考えると会社を辞めるという考えは、一時的に引っ込めざるを得ませんでした。仕事は国内部門以上に面白く、また中国語が使える仕事を上司が割り当ててくれたこともあり、ブツブツ言いつつも充実した日々を送ることができました。

また国際部門は予算がそれなりに割り当てられており、長時間残業してもその分の残業代がでるなど、実質的な福利厚生が良くなりました。自己研鑽のための借金は国際部門に移って数カ月で返済することができました。

「外交活動」に励み、念願の台湾駐在へ

国際部門では充実していたのですが、中国語を思いっきり使う仕事が来ることはありませんでした。やはり台湾や中国に駐在しないと、中国語をさらに上達させるのは難しいと考えていました。しかし海外現地法人への出向は現地法人社長などの管理職やその右腕に限られ、いずれにせよエリート社員の席でした。

あれこれ考えた末、台湾にプライベートで遊びに行く際はかならず現地法人、そして現地のパートナー企業にアポを取って表敬訪問し、顔を売ることにしたのです。プライベートではありましたが、日ごろメールや電話でやり取りしているだけあって、仕事の話にもなったりもしました。

もちろんプライベート旅行中に台湾の人材紹介会社に行って人材登録することも忘れませんでした。人材紹介会社の台湾人幹部と面談し、「中国語は全く問題ないね、上手だね」といわれたときは自己研鑽の甲斐があったと思いました。

こうやって今度は、現地法人もしくは現地パートナーから指名されて海外で駐在員になるか、日本の会社を辞めて台湾で現地採用として就職するか、賭けに出たのですが、今度は現地法人の方々からの色々な働きかけで台湾に駐在できることになりました。

「横紙破り」のしっぺ返しを食らい、駐在員の地位を失う

こうやって非エリートが台湾駐在にまでなったのですが、日本の上司が自分の知らないところで台湾駐在が決まったことに怒りました。呼び出されて大声で叱責され「お前の様な○○」とまで言われたのですが、その際に国内部門時代のエリート社員がやった「しくじり」が私のせいにされていることが、怒りで上司がこぼした話で分かったのです。

「横紙破り」を繰り返したので覚悟はできていましたが、そんな話までくっついてくると、下手をすると台湾から帰ったら、最悪は懲罰的な人事になる可能性もあると思いました。そこで台湾駐在が終了した段階で会社を辞めて現地採用に切り替える覚悟を徐々に固めていったのです。

結果として現地法人のトップの交代が本社主導で行われた際、新しいトップから1か月後に帰任するように言い渡されました。何とか引き延ばしや現地採用への切り替えも画策したのですが、ダメでした。新しいトップにとっては私の存在自体が目障りだったのでしょう。

人材紹介会社の親身なサポート(担当者も台湾で現地採用された日本人の方でした)を受けながら、1か月で必死に就職活動をし、別の業界の現地採用に、現地採用としては良い条件で転職することができました。

結果として駐在員としての期間は2年で終わり、短い期間ではありましたが、台湾現地にいなくてはなかなか現地採用ポジションの面接に行けませんし、なによりも台湾現地にいて中国語がなり上達しました。この2年間は無駄ではありませんでした。

現地採用で大幅収入減

転職して現地採用になって大幅に収入が減少し、翌年の税務申告では脱税を疑われるほどでしたが、生活するには十分であり、また現地採用になり待遇が台湾人社員とほぼ同等になることにより、会社の中では駐在員よりも、台湾人社員と一緒に過ごすことが多くなりました。

台湾人社員が日本人駐在員の批判をしている際も、「お前は台湾人だよな」と言って仲間に入れてくれました。企業からの派遣や旅行、留学などだと「お客さん」的な感覚になりがちですが、現地採用になることで初めて台湾社会の一員になった感じがしました。

正直、駐在員の中国語力や英語力だけでなく、問題解決能力や顧客対応力など社会人としての能力においても、台湾人社員の上に立つだけの価値を持っている人は少なく、色々な意味で複雑な心境にならざるを得ませんでした。現地採用になって台湾人社員が駐在員に対して抱いていた微妙な思いを改めて理解することとなったのです。

台湾人社員の中で、実践的な中国語コミュニケーションを学ぶ

多くの駐在員が全く現場に行かないこともあり、日本本社に台湾顧客の現場の声を直接伝えるコーディネーターとして私の出番が多くなりました。台湾人社員にとって、日本人の私は競争相手ではなく、密接に協力するパートナーになったのです。

台湾と日本の間でコーディネーターとして台湾人の優秀な営業と一緒に台湾顧客の対応をする中で、優秀な台湾営業によるプレゼンテーションやクレーム対応、情報収集のためのさりげない会話など、実践的な中国語によるコミュニケーションの手法を実地に学ぶことができました。

自分の望んでいることがより明確になる

台湾で現地採用となり、また違う業界で仕事をすることになり、正直不安もありました。しかしやってみると中国語・日本語の「言葉の壁」だけでなく、技術や法律などの「理系と文系の壁」、部門間などの「立場の壁」など、異なる領域や異なる立場をつなぐ「架け橋」として役立てることに本質的な喜びを感じていることに気づきました。

過去の仕事でもそれぞれの楽しさがありました。台湾で現地採用になってから初めて自分が「架け橋」としての仕事にやりがいを感じていることが明確になったわけです。その後、業界などにとらわれず「ブリッジ・コーディネーター」としての仕事をもっとやりたいと考え、台湾で起業し、今に至ります。

まずは走り始めよう

10年以上前の目標と現在の結果は一緒ではありません。しかしそれは過去の目標が無駄だったことを意味しません。仮でも目標を立てて頑張ったから、次の目標がより具体的になって見えたのです。もし過去に何もしなければ、今でも「自分探し」に必死になっていたかもしれません。

私の場合は、変わり者扱いされながら、場合によっては馬鹿にされたりしながら、大企業での出世を求めず、「台湾へ行きたい、少なくとも中国語を使った仕事をしたい、実践で中国語をブラッシュアップしたい」とずっと望んできました。そこまで強く望み続けて、10年たってくるとさすがに多少は夢が実現するものです。

偶然を如何に味方にするか

過去のキャリアは計算して積んだものではなく、むしろ偶然の産物に過ぎません。しかし自己研鑽なども含めて過去の経験はどんなことでも一生懸命やっていれば無駄にならないように思います。逆にまずは何でもやってみることでより過去のキャリアを自分の目標に生かす方法も見えてくるのです。

牙を抜かれるな

他人に頼らなくても自分で何とかするために努力や自己研鑽を重ねるのです。これが「牙を研ぐ」の意味です。間違っても会社などに依存し「牙」を抜かれてはなりません。

私は人事異動の希望を出す際に、人事部門の中の人が真摯に私の要望を聴いてくれることをどこかで信じていました。しかしそれはその希望がかなわなければ、収入が下がっても転職し、自分の求めるキャリアへ向かっていくという覚悟があったからこそ、そこに賭けることができたのだと思います。

自分の決断が正しかったことを自分の行動で証明

私の母は正直、私が大企業を辞めたことを残念がっていたのだと思います。しかしガンになって余命1年を宣告された後、仕事のやりくりをして、長期間日本の実家に戻り、最後の親孝行をすることができました。母も「台湾で何をしているのか良く分からなかったけど、色々苦労して立派にやってるんやな」ととても嬉しそうで、私も涙が出そうでした。

「alea iacta est (賽は投げられた)」のです。過去に戻って再度決断などできません。過去の自分の決断を後悔するより、その後の自分の行動の積み重ねで過去の決断が正しいことを証明する方が建設的です。私の場合、大学時代からブツブツ言いながらずっと走っていて、今も振り返らずそのまま走っているというのが、正直なところです。

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